ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

小さな命を救う医師の姿。

2008.01.18

先日、「小さな命を救う」という番組がやっていました。

医療の遅れた発展途上国での日本人医師の活躍を知らせるドキュメンタリー番組。

場所は、アフリカのスーダン。主人公は現在65歳。スーダンに来て15年。自分の財産8,000万円を出して、現地の人が払えるような安い金額で診断できる病院を作った医師の話である。

彼を補佐するのはすべて現地の看護学校を出た現地人たち。手術のアシストも彼らが行う。しかし、手術の最中でさえ医師の言葉に適切に反応しない。医師は苛立ち、大きな

声を上げる。

でも、これが現実。

医師のうわさを聞いて遠くから何十時間とかけて病気の子供を抱いてくる母。
ここまでひどくなる前に来るべきだったと思わせるほど病気の症状が悪化した患者。
ここにくる患者の内容は種々雑多だ。

まさにオールマイティーでないと、これらの患者に対応できない。
だからこそ彼は50歳まで日本で技術と経験を積んだのであろうと思った。

彼は、嘆く。

もっと病院施設が整っていればもっと難しい手術もできるのだが、ここではできない。街の病院へ行くように進めるが、お金もないと患者はそれを断る。
でも自分にはどうしようもない。
やるせなさが走る。

自分は手術をする実力も知識もあり、しっかりしたアドバイスもできるのにそれができない。そうしてこの子はやがて死んでいく。

本当につらい立場である。

そういった彼の妻も6年目に原因のわからぬまま高熱が続きなくなったとの事。家には妻を葬った墓地がある。

彼は毎日ここに来るという。

そしてその時間が一番落ちつくときという。

ふと、その墓の横を見ると小さなスペースがある。
これは彼がこの地に骨をうずめることを意味しているのであろう。

絶え間なく訪れてくる患者たち。彼には休む時間がない。ほとんど流動食で食事を済ませ、次の患者の診察に取り組んでいる。まさに24時間体制の仕事詰めだ。(自宅は病院の近くにあり、緊急の場合にはすぐに病院にいけるようにしている)

今度は足に交通事故で大傷をおった青年が入ってきた。

現地の病院で手術を受けたが、手当てが悪く、縫ったところから肉が腐ってきている。彼は命を救うためには切断を決行。見たととたんに決断である。

つまり、できることはこれしかないとはっきりしているのである。

自分が今の設備でできる全てを考え、つらい気持ちを打ち消し、現実を直視してすべて決定している姿に心が引かれた。

この地で頼れるのは自分ひとり。
相談する相手はいない。
孤独との戦い。
死と時間とのの戦い。

最近、日本では過疎地での医師が非常に不足していることが深刻である。

医療技術をUPしたい、都会のほうがいい、他の科の患者まで診れる自信がないなど、いろいろな理由があるようだ。

でも一度、誰も知らない遠い地で一生懸命「人の命を助ける」活動をしている医師の姿を、医師を目指す若い人に見てもらいたいものだ。

仏の眼。

2008.01.11

お正月の皆様のお宮参りは、家の近くの神社に、あるいは参拝客でにぎわう神社にといったように様々でしょう。

私の今年の願いは前回記載したとおりですが、お祈りの際に仏像を見ていつも感じることがあります。

『なぜ、仏像は半眼なのであろうか?なぜ仏像は耳が大きいのであろうか?』

皆さんも、このようなことを思ったことはありませんか? 

多分、耳が大きいのはどんな内容であろうと庶民の話をよく聞いてあげるという意味合いからなのでしょう。

でも、目が半眼なのはどうしてなのでしょう。

意識的に半眼し続けることは非常に大変です。皆さんも3分もやってみればわかります。

目を開けているか、もしくはつぶっているほうがはるかに楽です。半眼はとても疲れます。(ただし、もしかすると素人だけが疲れるのかもしれませんが・・・)

では、何故に半眼なのでしょうか?

その理由として考えられることは目を大きく開けていると恐怖感を与えてしまうから。

また、目をつぶってしまうと民が仏との心の結びつきを弱く感じてしまうからかな?・・・

そのため、半眼にすることにより民は仏が自分らの心の中を優しく見つめてくれていると感じられるからなのでしょうか。

仏に祈りをささげるときに、『仏はあなたのことはすべてがわかっているのだよ。』と言わんばかりに、その安らかな微笑と半眼を通し、私たちにその声を伝えているのではないかな?などと、私は思っています。

皆さんはどう思いますか?

日本人として生まれながらこういったことを知らないことに恥ずかしさを感じます。

知っておられる方は、是非教えてください。

初詣。

2008.01.04

2008年を迎えました。

新年、明けましておめでとうございます。
今年も皆さんにとって、すばらしい年となることをお祈りしております。

さて、皆様はどこに初詣に行かれましたか?

私は毎年同じなのですが家の近くの港区泉岳寺に行きました。

「そこで、何をお願いしたか?」って

それは商売繁盛に決まっているでしょう。と思われるかもしれませんが、実は私の気持ちに一番はじめに沸き起きてきたことは、自分で言うのも恥ずかしいのですが「世界平和」でした。

それは年末の海外ニュースを見ていると悲劇のニュースばかり。アルカイダの爆弾により17人の子供が負傷。すでに今年になってから2,000人以上の被害者が出ているとのこと。

また、ルーマニアでは戦争の傷跡として孤児が増えているそうです。親は子供をすてて海外に出て行ってしまった。残された子供たちは寒さから逃れるためにボイラー管が通っているコンクリートのマンホールの隙間にもぐりこみで生活。苦しさを忘れるためにシンナーを吸う毎日。うつろな眼がカメラをじっと見つめ・・・。

こんな悲惨なニュースを流していました。

これらの子供たちには何を楽しみにして生きていくのでしょうか?

「何のために生きるのか」も考えたところで彼らにとっては意味のないことなのです。こんな時間を過ごさせることは私たち大人の最大の罪です。

子供らにはなんら責任はありません。こうした社会を作り出した大人はなんとひどい人たちなのでしょうか。

地雷で足や手を失った子供たち。「あっ、変なものが道に落ちている。」それに触れたとたんに爆発。その日から彼女の人生は変わりました。もはや両足がない。ぼーっと何かを見つめる少女。

この年になって子供のかわいさほど尊いものはないと感じています。

何にも染まっていない純な考え。
子供らしい無邪気な行動。
一生懸命走る姿。
知らないものへの絶え間ない関心。
キラキラ輝く眼。

本当にかわいいと心の底から思っています。

今までもかわいいと思っていましたが、最近は特にその気持ちが強くなってきたようです。

ですから、前述したような事実は私にとって実に衝撃的でした。

こんなかわいい子供たちに不幸を与えてはいけない。そんな世界にしてはいけないと心の底から思っています。

自分がこれに対し何が出来るかはわかりませんが、出来ることは何でもさせてもらいたい。

本当に日本は幸せな国です。

我々、大人はこれを永遠に守っていかねばなりません。

経済思考の強い日本ですが、経済のことばかりでなくもっと世界を見てもらいたいです。

世界では毎日悲惨なことが起きています。

私たちはもっと現実の世界をしっかりと見つめ平和の尊さを真剣に考えていかねばならないと思いながら手を合わせた初詣でした。

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