ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

食事に行っていやなこと

2016.05.27

素敵にディスプレイされているお店、手ごろな値段でおいしい料理を出してくれるお店、あるいは裏道や住宅街などでこんなところにお店が?などといったレストランを見つけるとうれしくなります。

そして、そのお店がまさに自分にあっていると本当にうれしいものです。

そういったレストランを見つけると、すぐに人を連れていってあげたくなります。

でも、この逆もありますよね。

レストランに行き、皆さんが「嫌だ、もう二度と来ないぞ!」と思う時はどういう時でしょうか?

私の場合は3つ挙げるとすると

1つ目はタバコのにおいがする店。

2つ目は初めの料理がなかなか出てこない店。

そして3つ目は、やかましい店です

中でも最も嫌いないのが1つ目のタバコのにおいです。

私自身が若いときからタバコの煙とにおいが大嫌いだからです。

せっかくおいしい料理を食べに来たのに、タバコのにおいがしたらがっかりです。

最近は、禁煙席を準備している店もありますが、夜になると禁煙席がなくなる店も多いように私は感じています。

特に中華料理店、居酒屋、焼き鳥屋、焼肉屋などはそう感じます。

中華料理以外の店は「男性の店」といった傾向が強いですから、禁煙席を設けると店の売り上げ効率が悪くなるのでしょうね。

理解は出来るのですが、せっかくおいしいものを食べようと思って来たのに、タバコの煙が流れてくると本当に嫌になります。

私はこういった状態が起きると、さっさと店をでてしまう事もしばしばです。

でも、まずは店に入ったときに禁煙席はあるか、なければタバコの煙の来ない場所はあるかどうかを店員に聞き、あればその席に移ります。

でなければ、タバコを吸っている人のところにいって、「ちょっとタバコを控えてくれるとうれしいのだけど、協力してくれるかな?」といった感じで丁寧に話しかけます。

でも、多くの場合は「ここは喫煙の規制はないのだから何故やめなければいけないのだよ?嫌だよ」と、つっかかるような言い方の返答をされるのがほとんどです。

「いいですよ。迷惑かけてごめんなさい」とか「気を配らずに失礼、外で吸ってきますね」というような人はゼロに近いです。

これを皆さんはどう考えますか。

タバコが大嫌いな私はこう考えています。

たしかに、喫煙は禁じられていません。

でも、煙がただようことによって、女性の髪などはタバコくさくなるし、おいしい食事をしていても不快に感じる人は決して少なくはないと思っています。

「皆が楽しい時間をすごしているのに、少しの時間我慢してくれてもいいのではないのかな?」と思います。

まして、まったく喫煙するなと言っているのではなく、外に出て吸うことまでダメだといっているわけではないのですから・・・。

プカプカと吸うようなことはやめていただきたい。」とお願いしているだけなのですから・・・。

また、全ての人にキレイな空気を吸う権利はあります。

タバコの煙でこの権利を侵害してもらいたくといった考え方もできます。

健康を害したくないとも考える人もいるでしょう。

少なくともタバコの煙で空気がキレイになっていくことは絶対にないのですから。

一方、喫煙者の方は世間から褒められることはまずありませんから、ちょっと喫煙についてお願いや注意を受けたりすると、そういったことから「うるさいこと言うなよ。」といった気分が起こり気持を害するのでしょうか?

タバコアレルギーの私にはその気持ちはまったくわかりませんが。

周りへの配慮はどんなところにおいても、やはり必要であると思います。

寿司屋のカウンターで前に向かって煙をプーと吐いている客を見ると、本当に腹がたちます。

そういった人は寿司の食べ方を知らないのでしょうね。

ネタを大切にする寿司職人の人達に悪いと思わないのでしょうか。

自由とは全て自分の好きなことをすることではありません。

自分を束縛する自由もあるのです。

年齢と気と教育

2016.05.23

歳をとるにつれて年齢というものを感じてきます。

皆さんはいかがでしょうか?

私が初めて感じたのは34・35歳のころだったと思います。

残業が続いていたある日、「今日は疲れたな・・」といった事を27歳ごろの自分を思い出しながら感じました。

今まではそんなことを仕事の中では一度も感じたことがなかったですから、「年齢かな?」と初めて思いましたね。

それからしばらくは感じたことはありませんでしたが、50歳を過ぎてプールで背泳をしていると、どうも腰が沈みがちになります。

30代の時はそんなことはなかったので、これは「筋力の衰えなのかな?」と思いましたね。

そして50代の半ばになりタイでマッサージを受けた時の事です。

強めに腰を押されたり、上に乗り踏みつけられたりとかなりきつかったのですが、痛みを我慢し2時間受けました。(一緒に受けた友人も何度も「痛い、痛い」と言っていましたので、やはりかなりきつかったのでしょう)

そして、当日はなんともなかったのですが、次の日ベッドから体が起き上がりません。

腰の神経を痛めたようです。

やっとのことで体を起こしたものの10mも歩けません。

10分も立っておくことも出来ないひどい状態です。

これは「昨日のマッサージを受けたのが原因だ」とすぐに感じましたね。

でも、一方では筋肉の衰えのために「耐えきれなかったのかな?」とも思いましたね。
これが治るのには8ヶ月ほどかかりました。

その後はちょっと違った現象から年齢を感じ出しました。

少し先の横歩道の信号が赤になりかけていたりしても、頑張って走って青信号のうちに横断歩道を渡ろうといった気持が起こらなくなりました。

これは気力の問題かもしれませんし、「そんなに慌てなくてもいいではないか?」といった行動の変化かもしれません。

これは前述してきたような筋力の衰えとは違い、気力でしたので、自分でも意外でしたね。

そこで、「衰えの中に気の衰えも出だしたのかな?」と、このちょっとした行動を通じびっくりしましたね。

その理由は、私は30歳まで合気道を一生懸命やってきていたので「気」に対し一般の方よりも非常に関心を持っていましたから、生活においてはいつもプラスの気を持つように心掛けていました。

ですから、つらい時があっても「絶対に俺は成し遂げれる」と信じ、「神が私への試練として与えたものだ」とか「この苦しみを楽しもう、将来の楽しみを感謝できるように」とか、とにかく楽天的に物事を考えるようにしていました。

ですから、人の裏切りやごまかしを受けても「所詮、人は弱い者だ・・」と考え、「そのことを憎らしく思い続けることは、自分の心を腐らせることになる。」と考えるようにし、「許す」というよりも「忘れる」ことに専念していました。

ですから、今でもその心は同じです。

自分を押し付けるようなマイナスの気(いわゆるゆる消極的な気)は私にはありません。

いつも気を発散させ続けようと心がけています。

このため、子供たちへの教育も同じです。

しかることは人としての道徳に欠けた行動をした時だけと言ってもいいです。
試験結果や勉強の事で怒ったことはありません。

いつも子供たちを注意する時は、彼らに考えさせることをまず意識して言葉を選びます。

つまり、「パパはこう思うけど、君はどう考えるかな?よく考えてみてごらん」といったようにです。

そして、子供がふさぎこんでいるような時(心がマイナスの気で占領されている時)には声はかけません。

かけても彼らに受け入れる力がないですからね。

ですから、心の気がプラスになっているかどうかを確認してから行います。

このため、子供たちは私に怒られたといった記憶はほとんどないと思っています。

また、「出来ない」「だめだ」「嫌いだ」「難しい」などといった言葉はつかわないようにしています。

使うのは「出来る」「可能だ」「好きだ」「簡単だ」といった言葉です。

これは彼らにプラスの気を与えるためです。

すると、彼らは自分で自分のしている行動、または、これまでの行動をよく考えその結果が今の自分であるのだから、それは認めるべきだ。

もし、自分が今の状態を満足できないなら、今後は自分でそういった結果を起こさないような行動をとるようにしようというと、彼らは頑張りだします。

つまりこうすることでも失敗ということがあっても、それは失敗ととられなくなり「自主性と責任感」が彼らに生れ出ます。

ですから、私は子供たちに対し「自分の人生は自分で創る」といったように、個性と自主性をもてる教育をもっとも大事にしています。

また、子供たちにも常にプラスの気で考えるように育ててきました。
子供や後輩を育てるにおいては、まず長所を伸ばし、短所は後回しです。

短所については注意だけです。

その理由は短所も逆から見ると長所になりますから、それをうまく生かすことを考えるようにしているからです。

「気」、これは見えないものです。

でも、人はこれを感じることができます。

理由はわかりません。

決してロボットにはできないことです。

どんなに人工頭脳技術が進んでもこれはできない事です。

だからこそ、我々はこれに気が付かず行動し「何が人間らしい」と言えるのでしょうか?

私はいつもそう考えて自分の行動(加藤裕彦としての行動)をしています。

このため、子供たちが理屈のない行動をしても、彼らが社会道徳に反しない行為であれば、それを時としては黙って見ています。

多分、それは彼らの感覚から出た結論としての行動なのでしょうから。

ですから、よく考えた上で人間としてその行動を行った子供たちの決断を尊重します。

そして、その結果を彼らがどう受け止め、どう利用していくか、見つめています。

人間としての「成長」とはそういうものではないのかなと思っています。

心を安める

2016.05.13

現在私は会社の代表をしています。

世界の立派な経営者の方々が社長としてどうあるべきか?についてお話をうかがうことは、私の糧となっております。

私としても今までの経験を通じて「こうあるべきだ!」といった自分の考えを持っておりますが、「それをもっと簡単に誰にでも無理なく理解でき、すぐ行えるようにするには、もっと違った言い方や伝え方がないものか?」と時々思うことがあります。

新入社員の方、あるいは管理職の方も立場は違っても、公私を問わず心掛けていただきたい事それは、「大事な時にこそ実力を発揮できる人間になれるようにしておけ」ということです。

これは学生についても言えることです。

今は競争社会ですから主にペーパーテストで区別させられてしまいます。

まさに入試テストがそれですね。

普段学校で行なわる試験ではいい点数を取っているのにもかかわらず、本番のテストでは弱い人がいます。

失敗すれば思ったところに入学できません。

確かにテストには運もありますが、そうであってもその理由のせいにしてはだめです。

昔、私の友人でそういった人がいました。

受かった後にそういうことを言うのならまだしも、受かりもせずにそういうことを言ってはいけないと思います。

「自分には色々な面で実力が足りなかった」と素直に認めなければいけないと思っています。

会社においても営業の部長として行うべき事、人事課長として行わなければいけない事など、それが会社の将来を左右させる重要事であれば、その立場においてしっかりとやりきらねばならないことがあります。

でも、いざ大事を任させても日頃の力が十分に発揮できずに、成し遂げることのできない人では困ります。

では、学生においても、社会人においても、いや全ての人においていえるのでしょうが(無論、私も含めて)、なぜそういった事が出来ないのでしょうか?

答えは「本人に実力がない」からといった、頭脳や根性が足りないといった責任感や積極的な気持ちといった事だけではありません。

事実、そういった理由もあるのでしょうが、それよりももっともっと重要なことがあると思っています。

それは心の問題、つまり「重要な場面に臨んで、心を安めることができるかどうか」です。

一般には緊張や怒り,心配事などといった事がある人は心がみだれてしまいます。そうなるとなかなか自分の思ったような結果はあられません。「心を安める。」という状態が出来てこそ、自分の実力をフルに発揮でき、期待したものをつかむことができるだと私は思うのです。

では、どうやれば心を安めることができるかです。

その方法として昔から座禅とか瞑想?など行われておりますが、私はそういったことを深く経験したことがないのでその奥意はわからないのですが、基本は「呼吸」なのではないのだろうかと考えています。

ご存知のように気持ちが安定していれば鼓動は70回前後です。

でも、気持ちが落ち込んでいたりハイになったりしていると鼓動が変化します。

つまり「鼓動と感情には関係がある」という事です。

ただ、私たちはその鼓動のスピードを自分の意識で早めたり遅くしたりと、コントロールするのは不可能です。

でも,呼吸であればどうでしょうか?

自分の意識で、呼吸を安定させることで心を安定させることが出来ると言えるのではないでしょうか。

そうすれば、どんな時でもどんな問題にも落ち着いて対処できることになりますよね。

常に無意識に行っている呼吸ですが、これを安定した呼吸(意識をせずに深い呼吸をし、多くの酸素を体の中に取り入れ、細胞の隅々から二酸化炭素を吐き出すような呼吸)に変えていくことで、健康体と共に、大事な時に実力を発揮できるようになれるのではないでしょうか。

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