ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

2つのタイプの人間

2012.04.20

人の性格には色々ありますが、話していて感じる事の中に、いつまでもくよくよしている人と、楽天的というかすぐに気持を切り替えて、次の事にさっさと取りかかるタイプの人種がいることです。

このことは皆さんもよくお分かりのことと思います。

でも、これってその人の性格によるものでしょうか?

一体、何がこのように分けるのでしょか?

実際、話していて気持がいいのはやはり後者の方です。

時折、ここまであっさり割り切れることができるのは、その事にあまり一生懸命に力を入れてなかったのか、実際はできると思っていなかったのではないか?と、思うことさえ感じる程のさっぱりタイプの方がいます。

しかし、その内容はどうであれ、振り返ることなく進もうとする姿勢には共感しますし、一生懸命応援したくなります。

一方、私の性格もあるのでしょうが、私のもっとも嫌なのが、いつまでもくよくよとして後悔ばかりしている人です。

始めはその方の相談事に一生懸命私も頑張るのですが、相手の話す内容が足踏み状態か、あるいは過去の事の思い出(検証かもしれませんが)ばかりとなると、やはりうんざりしてしまいます。

これからといった発展的な話がありませんからね。

「もし、こうなっていれば今とはもっと違ったのに・・・」、と言った後悔事ばかりです。

これを何度も聞いていると、実に疲れてしまいます。

世の中にはどうにもならない事も沢山あるわけで、いつまでも考えても仕方がないのです。

また、世の中は自分の思ったように動くわけではありません。

全て相手(自分以外のもの)があってのことです。

ですから「・・・してたら」「もし・・・であれば」などと過去の事や、変えることのできない事をあれこれと考えても仕方がないと思うのですが、当の本人はそうではないようです。

「なぜ、それがわからないのだろうか?」と、たまに思うことがあります。

私の信条は過ぎ去った事柄について、悔みの意味を含む「たら」「れば」の言葉は使わない事です。

出来る事を全てしてみて実現出来なかったらそれでおしまいです。

「しかたない。」とあきらめます

でも、そういった時は、「出来なかったからには何か理由がある」と現実を受け入れるだけなのです。

過去を振り返るためにとどまっている時間などはないのです。

「感謝」

2012.04.13

高層ビル街の中にあるコーヒーショップの外のベンチに腰かけて、通り過ぎる人や車の流れをなんとなく眺めているのが休日の朝の私の行動。

こうしてそびえたつビルやきれいな道路・並木・shopなどが出来たのも経済の発達のおかげです。

その経済を発達させたのは、やはりエネルギーや交通手段の発展によるところが多いのだろうと考えながら・・・。

そういった大きなもの・重いものがあちこちに運べるようになったのも、自動車ができたため。

この自動車が動くのは「爆発」からできるエネルギーを使ったエンジンですが、このエンジンを開発した人は考えて見るとつくづくすごいな〜と感じます。

もし自動車がなければこの世はどうなっていたのかと。

馬やロバといった動物の力に頼らざるおえなかったわけですから、そうであったらどこまでこの世が発達できたのかと。

そして今の自分の生活はどうなっていたかと・・・。

ダイナマイトを発明したのはご存じノーベルですが、それと同じくらい「エンジン」を開発した人もすごい人だと思うのです。

でも、私はそれを誰が発明したかは知りません。

ワトソンはスチームエンジンを発明しましたが、油を使ってのエンジンまでは発明していませんよね。

それではだれが発明したのでしょうか?

これにはかなりの苦労があったことでしょう。

豊かさの中に隠れた人の努力は意外に気がつかないものです。

豊かさに囲まれれば囲まれるほど、それを当たり前だと思ってしまうから。

でも、こう出来ているのもその陰には相当の努力と時間がかかっています。

だから、思うのです。

我々に最も大切なことはこういったことを与えてくれた人々への「感謝の気持ち」だと。

偶然の一致?

2012.04.06

現在の時間は4月5日、バンコク時間で3時40分です。

昨夜は仕事疲れのため11時と早めに寝ましたが、ふと目ざめて時計を見ると3時10分を指していました。

「どうしたのかな。まだこんなに早いのに・・・・」と思いながら10分ほどベッドの中でうだうだとしていたのですが、はっと気がついたことがありました。

私事で申し訳ないのですが、一年前の今日この時間、朝4時頃に父が他界いたしました。

思い起こせば、昨年の今日より1週間ほど前から、医師に父の病態の山場が来ることを聞かされ、家族が毎日徹夜で付き添っておりました。

父の病気は血液の病気で、赤血球の数が一般人の20%ほどしかなく、そのためどんどん体が衰弱していく病気でした。

この時期においては末期の状態となり、治療法といえばもはや輸血しかない状態でした。

普通であれば、ここまでにいたらずとも思考力も衰えるのですが、幸運にもその点はしっかりしており、医師も何故これほどまで頭も働き元気でいたのか、全く不思議といった状態で、生きているのは強靭な精神力しか考えられないと言われていました。

ですから、家族もこの時点においては、もはや付き添ってあげることしかできないといった状況でした。

そして2011年4月4日24時、この日も家族や孫が全員集まり付き添っていたのですが、呼吸も血圧も安定しているということで、母のみを残して一端家に戻り、また明日の朝に来院することにして病室を出ました。

私が家に着いた時間が4月5日の1時頃でした。

そして帰宅の4時間後、父は他界したわけですが、その時間はなんと本日、私が目ざめた時間なのです。

偶然の事なのでしょうが不思議なことがあるものです。

早速ベッドより抜け出し日本の方を向かい、亡き父への冥福をささげ、今日の一日が始まりました。

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