ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

5月を迎えた学生たち。

2008.05.02

雨に若葉の色が一層と鮮やかに映える5月になりました。

4月は子供たちの入学式、社会人への旅立ちなどといった新たな出会いに対しての準備で、お母様は何かと忙しかった月ではなかったでしょうか?

そして、1ヶ月を経てやっと少し落ち着き始めた頃でしょう。

また、大学に入学した者たちは友達も出来始めることでしょう。

実際のところ、

何だ、思ったより大学ていい加減じゃない。
無理して授業に出なくてもいいしね。
これからは何でも自由できるぞ。
束縛からおさらばだ!
お金も親に頼らず、ほしけりゃ一所懸命にアルバイトすればいい。
車の免許を取って車を買ってあちこちに出かけよう。

まさに鳥かごの中で育った小鳥が空に離されたという感じが大学生たちの心境でしょう。

こう考えると、大学を決めるときあれほど悩んで決めた学部は一体何の意味を持つのでしょうか?

実際、私としては高校生がどの学部に行きたいのかを決めること自体に無理があると思っています。

経済・経営・法律・教養などとその内容の違いが明確にわかる学生などいないのですから。

確かにほんの一握りの学生が自分はこれを学びたいと思い学部を決めるのでしょうが、多くの学生はむしろ受験競争率を見ながら学部を決めている節もあるのではないかと思います。

これでは、やはりダメ。

世界に勝てないですよ。

何のために大学にいくのかという本来の意味を全く忘れていますよね。

まさに大学に入れさえすればいいといった日本の教育の姿がそこに現れています。

だからこそ名門校の競争率が高まるのでしょうね。

実際、私立においては同大学内でいくつもの学部を受ける人がいます。

これっていったい何なのでしょう?

確かにどこの学部に入りたいのか自分ではっきりしない中で受験しているのですから当然ともいえますが、やはりおかしいです。

要は彼らにとって(あるいは親にとっては)は望みの大学に入れさえすればいいという考えなのでしょうね。

つまり学ぶ学問は関係ないということなのでしょう。

ですから、入社試験で学生に学部を尋ねるのは何の意味があるのかと思います。

大学名や学部も聞かずに、

貴方は何をしてきましたか?
何に自信がありますか?

のみを尋ねれば、およその彼らの学生生活はわかるものと思います。

人を育てることは非常に時間のかかることですが、まず素質ある者を探すことが大事です。

その時に大学や学部ではないでしょう。

これをいつまでも行っている日本は本当に世界に負けるぞ!と声を大きくして言いたいです。

家族の結束。

2008.04.25

先日、仕事で台湾に出張してきました。

この間、長年の友人である台湾人のAさんと行動をともにした際、色々な話をしました。
特に印象深かったのは『家族の結束』についてでした。

彼は44歳。自宅には家族は妻と子供が2人。それに彼の両親2人の合計6人住まい。

彼はメーカーに勤めるごく一般的なサラリーマンであり、奥さんも働いています。帰宅は19:30頃。奥さんは銀行にお勤めで、帰宅は彼よりも遅く21:00頃。

ですから、お部屋の掃除・食事の支度、そして子供の世話は彼らでは出来ません。

それをすべて行うのは彼の両親、おじいちゃんとおばあちゃんの仕事だそうです。

両親はお金を稼ぎ、家事と子供の面倒は老人の仕事といったように、自分がその時点で家庭に対して出来ることをするといった考えなのでしょう。

また、毎週末、自分の別荘で家族全員との時間を過ごすそうです。

日曜日の午後まで別荘でのんびりして帰宅します。

そして、家に戻るとその後は兄弟(兄が2人)も近くに住んでいるということで、昔から続いている兄弟の家族を全員自宅に呼び、総勢13名で晩餐会をやるそうです。

こうした親族の晩餐会が毎週ですよ!すごいですね。

私はこれを聞き、Aさんの家族の結束と言うのは本当に強いのだなあ〜。これは今や日本ではほとんどないな。子は親を尊敬し、親は子を愛す。そして、親族が皆このように幸せに生きていることを親に感謝し、互いに助け合って生きていくと言った「道徳」と「孝」を、こうした日頃の晩餐会を通じて子供のころから心の芯まで教え込んでいるのだと思いました。

なんだか本当にうらやましく、また素晴らしい人間的な家族愛を感じさせてくれました。

日本では核家族が進み、おじいちゃん・おばあちゃんと一つ屋根の下で生活している人は非常に少なくなりました。

実際、両親と暮らそうにも家にスペースがないといった環境問題や、おじいちゃん・おばあちゃんも年をとって子供の世話になるのは申し訳ないといった気持ちなどで一人暮らしの老人が増えています。

こうした状況の中で、徳・孝をもった人間形成が出来るのか疑問に感じます。

今や日本は学力的にも落ちてきている中、人間形成といった点においても差がつけられていっては今後どうなるのかと心配になります。

街を歩くと、布がボロボロに破れ、腰までおろしたダボダボズボンをはき、シャツのボタンをだらしなくはずして道路の真ん中をワサワサと歩いている若者達。

電車の中では老人が立っているのもおかまいなしに手鏡もってメーキャップに没頭する若い女性。

本当にこれでいいの?

日本の精神はどこに言ってしまったのと問いただしたくなるのは私だけでしょうか?

子供への教育。

2008.04.18

ここ数年、子供の犯罪の内容が変わってきていることは皆さんもなんとなく感じておられることと思います。

「昔は、こんなひどい事件は子供の世界では起こらなかったのに、今の時代はどうなっているの?」と悲観する前に、『自分の子供』ということについて考える必要があると思います。

私が思うに、日本のお母さんは子供に対して優しすぎるように思います。

まるでペットのようにひたすら可愛がるといってもいいでしょう。
とにかく子供に危険なことをさせない、ちょっとしたことで欲しい品物を買ってあげる、など。
子供をマユに包んで育てているように思われます。

でも、これでいいのでしょうか?

我々は、子供たちに『この世は戦い』であるという厳しさ・辛さを教える必要があります。

そして、その戦いのために『考える』ことが何よりも重要であることを教えるべきであると私は信じています。

つまり、親は子に生きる力を教えていくべきなのです。

しかし、現実はちがいます。

今の教育は記憶重視。考える力を鍛えない。

たしかに、ある程度は覚えることは必要なことでしょう。

しかし、なぜ鎌倉幕府の出来た年代を覚えさせる必要があるのでしょうか?

それよりもなぜ鎌倉幕府ができたのか、その鎌倉幕府は室町幕府とどのように違った政治を行ったのか、そして、それはどのような社会変化を起こしたのかなどといった時代や文化を教えることの方が、もっと重要なことと思います。

これを知ることにより一つの歴史的なデータが流れとして記憶され、このことが将来の自分の考えをまとめる際にきっと役立つように思うからです。

たくましく生きるには『考える』力がないければいけないということを私は言いたいのです。

その考えが間違っていたとしても、なぜそれが間違ってしまったのか?といった原因がすぐ解るような思考方法が必要と思っているからです。

答えにおいて「そう言われたから。そのように書いてあったから。」では今後全く役に立たないことを親は子供に教育していくべきです。

時代は変わったのです。

追いついて行くのではなく、生きる道を自分で切り開いていかねばならない時代となったのです。

知識から知恵の世界に変わったのです。

知識は小さなチップにとって変わったのです。

また、「子供の教育はすべて先生任せ」というのが日本の特徴。

「いい学校に子供を預ければいい教育が与えられる。」というものではないということを親はしっかり認識すべきなのです。

エレベーター式の付属学校が増えていくとともに、戦いを避ける教育の増大。

そして、これに群がる親たち。

しかし、この行動が今後の日本の成長にどれほどのダメージを与えるかは早いうちに明らかになってくることでしょう。

親がしっかりしなければ、明るい国づくりは出来ないのです。

国や人任せでは手遅れなのです。

このことは孔子も論語の中で述べています。

私が亡命して初めて衛の国にいったのは56歳の時であった。弟子の由有に「この国は人口が多いね。」といったら由有が「人口が増えたら何をなさいますか?」とたずねるものだから「経済を豊かにするね。」と答えた。

すると今度は「経済が豊かになったら何をなさいますか?」と聞くものだから、今度は「もちろん教育だよ。」と答えた。

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