ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

内臓脂肪を減らす。

2007.03.30

皮下脂肪は、体が引き締まってきている姿を見ればその減少率が解ります。

やはり、皆さんが気になるのは内臓脂肪。身体で実感できないだけに気になるでしょう。

私の最近の出来事を書きたいと思います。

最近、外食が多いいだけに気になる。一体どの程度あるのかと脂肪計のついた体重脂肪計にのって量ってみるが「標準」と出る。「いや、そんなことあるまい。この体重計壊れているのではないか?」と思うほど納得いかない自分。自分としてはたっぷりついているように思うのだが・・・・。

たとえ、体重脂肪計では「標準」と出ても自分が納得できなくては意味がない。そういうことで、「では、どうやって脂肪を減らそうか?やはり直接内臓を振って、血行をUPさせるのがいいだろう。」ということで、縄跳び、トランポリンなどを思いついたが、急に過激なことをやっては逆効果かな。まずは徐々に・・・。ついでに腹筋を鍛えたと思い、バランスボールを買うことにした。

有楽町の家電量販店に行くと、たまたま3,500円ほどで直径65cmほどのボールが安売りされていた。「もしかすると人気がないために安売りしているのかな?」と思いつつ、ともあれラッキーということですぐ購入。

早速、空気をいれ、いざトレーニングスタート。

まずはこれに跨る。跨ったら脚が床に着かない。これ脚が短いため?「いや、ボールが大きいために違いない」と自分をなだめ、少し腰を前にずらすことにする。脚をしっかりふんばって腰を大きく旋回。ボールがあちこちへ動こうとするだけに思ったよりも腹に力が入る。50回も行えば腹筋が疲れるほど。さらに、少し体を後ろに反らして行えばさらに腹に力がかかる。「これはなかなかいいいぞ。」その上すわり心地も良いときている。暇な時はこれに座ってテレビを見るのもいいかなと思うほど。

そして、次は本来の目的の内臓脂肪を振る運動。「やはり内臓を直接振るほうがいいだろう」
ということことで、ボールにまたがって背筋をしっかり伸ばしてボヨヨーン、ボヨヨーンと弾ませる。弾みとともに腰を浮かせまた座る。これをテンポよくやっていると子供の頃の遊園地の木馬を思い出す。音もほとんど出ずなかなか気持ちがいい。まんざら捨てたものじゃないな。

しっかり内臓のゆれを感じながらおこなうこと10分。なんとなく内臓に刺激を与えることができたし、身体全体がほぐれた感じがする。体も暖まった。その上、宇宙遊泳しているような感じで気持ちがいいときている。

でも、「縦ゆれだけでいいのだろうか?横揺れは必要ないだろうか?いや、日常活動で横揺れなどが内臓にしょっちゅう起きることはないから必要ないのではないかな?」などお腹を見つめながら考えている私でした。

追記:バランスボール、今まで軽視していましたがなかなかいいです。でも空気を入れると以外に大きいので、小さな部屋だと置き場所に困ると言った不便さがありますね。また、定価だと65cm品で6,000円前後ですが、これでは高い感じ。2,500円以下で購入できればお勧めかな。また、腸の動きが悪い人にはお勧めの品だと思いますよ。

人間の行きつく幸せとは。

2007.03.23

人は、あの人のようにお金持ちになりたい。いつでも好きなところに遊びに行けるような生活がしたい。立派な大きな家に住みたい。など、「○○したい!」という言葉ばかり。

つまり、それはそのような世界を経験したことがないからこそ起きてくる事。でも、前回も書いたように人間の幸せはあるリズムをもった生活からくるのであろう。

つまりリズムとはある刺激を持って作り上げられる。人生で言えば毎日刺激の多い生活ばかり行っていると疲れてしまうし、そうかといって刺激のない生活ばかり送るとまた疲れてしまう。程よいバランスが必要だ。

自分に「なぜ生きているのか?」と問われれば「刺激を求めて」とすぐに答えるだろう。刺激のない世界で生きることは自分にはとても出来ない。では、何の刺激を求めているのだろうか。

やはり生きていることを感じる刺激。それは五感を通じて感じる刺激と精神を通じて感じるものがあろうが、私も皆さんと同じように精神の刺激を感じていたい。

美しいものを見ても美しいと感じねば何も意味はないし、音楽では、いい曲といわれても自分にとって心地よくなければ悪い曲となる。つまり受け取る側がすべて決めていくことになる。これを簡単に言葉で換えれば結論は「好き」か「嫌い」かである。幸せな人生の送り方も同じことが言えるのだろう。

ここに、ハーバードビジネススクールで伝えられている話を紹介する。

ハーバードビジネススクールといえば世界の経済を動かす野望を持った連中があつまる登竜門。だからこそ彼らはビジネスモデルを作り上げ、その一つの結果として巨大な富を作り出すことに夢を抱く。その富と幸せの関係を述べた話としては面白いだろう。

ある片田舎の漁村。そこに魚とりで有名な男がいた。

毎日、朝早くから海に出て魚を取っていた。彼にとっては海は子供のころからの遊び場、すべてのことを知っていた。漁が終わり浜に戻るとその魚を仲間とともに焼いて食べ、残りの魚は市場に持っていって売り、そのお金で食材や子供たちのおやつを買い小さな家に帰っていくのであった。

家ではお父さんの帰りを待った子供たちが外に飛び出して彼を向かえ、家族一緒に楽しく夕食を取り、皆がお父さんの話に耳を傾けていた。そして子供たちにお休みのキッスをしたあとは、ウイスキーを片手に妻と一緒にテラスに出てきれいな星を眺めて暮らしていた。

そうしたある日、あるエリート校を出た名門投資銀行に勤めている身なりのいい男が尋ねてきた。そして彼に言った。

「あなたの漁におけるすばらしい能力は遠いウォール街でも届いています。そこで、あなたの能力をもっと生かし事業を一緒に行いたく、ここまでやってきました。」

そして彼は話し出した。「あなたの捕ってくる魚の鮮度はとても高い。この小さな島だけで売っているのはもったいないと考えます。もっと他にも売っていくべきです。たとえば、隣の国に売ることも考えてはどうでしょうか。さらに漁の効率化を図るために、新たな漁船を購入し経済活動的な運営を行いましょう。そして、こういった事業を行うにあたっては優秀な人材も紹介します。そして、この事業がうまくいったら、今度は競合相手を企業買収しましょう。これにより、事業における間接部門の合理化もできますし、新たな顧客の獲得もできていきます。また、収益率も収益も良くなって行くでしょう。その後は株式公開を目指しましょう。公開すべき市場は世界にもいくつもありますが米国ナスダックなどがいいのではないしょう。私たちはこういった成長企業への投資家を多く知っていますからご紹介します。」と、一連の夢あるビジネス構想を力強く説明した。

その後、漁師は尋ねた。

「それでその後、私はどうなるの?」

彼は「えっ!」その言葉に驚いた。そして、すかさず言った。

「きっと皆もうらやましがるような多くの富を手にすることができるでしょう。そうすれば、毎日海が見れるような大きな家を買い、友人と素敵な食事をし、時には奥さんを誘ってのデートもできますよ。お子さんにも良い教育を与えるチャンスも作れます。こんな夢のような毎日がおくれるのですよ・・・。」

すると漁師は言った。「それは、今の生活となんら変りがないね。」と。

皆さんは、どのような幸せな人生を送りたいですか?

人はどんなことをしても生きていける。

2007.03.16

発展途上国に行くといつも思うことがある。人はどんなことをしても生きていけると。

都心を離れ田舎町に着く。ここは同じ国といえども都心と違いかなり物価が安く感じる。軽食であれば120円も出せば十分だ。しかしこういったところでさえも、アパートに住むこともできず高床式の粗末な小さなバラック小屋を立てて生活している人たちがいる。この人たちにとってたとえ100円といえども非常に高く感じるのだろう。

家の前では、父親がタバコをふかしていたり、ただボーと外を眺めていたりする。また、子供たちは無邪気に大声を上げて追いかけっこをしていたり・・・。

多分、この家では女性が働きに出て生活を支えているだろう。一日1,000円として一ヶ月30,000円の収入。いやそんなに稼ぐことは無理だ。多分その半分の15,000円ほどがいいとこだろう。これで4??5人を養っている。なんとたくましいことだろう。

日本では会社でリストラされて再就職さがし。でも仕事が見つからない。見つかっても給与が低すぎる。こんなことでは生活ができないと嘆くエリートサラリーマンだった人。

違った場面では、経営がうまくいかない。売り上げが伸びない。これではもう自分は終わりだ。もう死ぬしかない。といった先行きの不透明感に絶望的な考えを持つ経営者。

なんと暗い人が多いことか?一度、そういう人たちには言いたい。

人はどんなことをしても生きていける。

今、私は贅沢まではいかないが、そこそこ経済的にも満足な生活を送っている。でも、明日からたとえ今の給与が10分の1になったとしても生きていける自信がある。それはなぜか?給与が変わっても自分が変わったわけではないから。そして今の状況にしがみついていないからである。

たとえどんなに落ち込み、みじめといわれるような生活を送ることになったとしても、自分はできると信じている。そして、それにストレスを感じないようにする方法も心得ている。

これも自分の運命の一つとして、その状況を素直に受け取ること。

私は性格上これができるのが特徴。ただし、一点違うところはたとえどん底に突き落とされてもそこにはとどまらない。必ず復帰するエネルギーがあるということ。

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