ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

電気ポットへの喜び

2018.04.27

とある休日、昔お世話になり、しばらくご無沙汰しているご婦人のところへ、その方の友人(83歳)とご一緒に訪問しました。

このご婦人の方は既にご主人は他界され、もう10年余りお一人でマンションに住んでおられます。年齢も87歳と高齢なのですが、非常にお元気で掃除から家事・買い物まで、全てお一人でなされています。とても裕福な方で、何の不自由もなく、まったくお金に困ることはありません。欲しいものは何でも買える状況にあります。そして、健康のために食事は腹八分、バランスのよい食事を取られ、散歩や体操さらには数箇所の教室で習い事をなさっておられる素敵なご老人です。

声もはっきりして頭の回転も速く、外見を見ても87歳の高年齢の老人とは思えません。ただ、年齢的にやや耳が遠いももの、髪も多いので10歳は若く見えます。

そういったご婦人と話しながら、彼女が訪問した私たちに自慢したことがあります。

それは、「電気ポット」です。

彼女は私たちに紅茶を準備しながら、「この電気ポットはとても軽くて使いやすいですよ。すぐにお湯が沸くし、大きさも私に合っているし・・・。そして、これは私の子供がくれたのですよ。本当にうれしわ♪・・・」とニコニコしながら紅茶を入れていました。

これを聞きながら、私は思いましたね。

このポットはそんなに高級なものでもなく、ごく普通の物です。このご婦人であればすぐに買えるものです。でも、「このように喜びながら、そして自慢げに私たちに話すのはなぜか?」といえば、それは「こういう便利な製品を保有しているのよ。」という所有への自慢話でなく、こうった物があれば便利だろうと子供が彼女のこと思って買ってくれたその優しい気持ちを皆に伝えたかったのでしょう。

このように子供がいつも自分のことを気にしてくれている優しさ、そしてその思いやりを受ける環境に恵まれた自分の幸せが何よりもうれしかったのでしょうね。私はそう思っています。

「人間の幸せ、それは何か?」。いつの時代でも問われ続けてきたことです。

この答えは年齢によってやや異なる点が幾つかあるかも知れませんが、やはり高齢になり、人との交流が少なくなっていく年齢においては、自分の存在も社会から薄れ、子供との連絡も疎遠になります。そして寂しさがだんだんとつのります。そういった中で、何不自由のない経済環境にいるこのご婦人においても、子供からの思いやりは何ものにも替えがたいうれしい宝物なのだ!と感じましたね。

思いやりはお金では換算できません。

実に見えないものは素晴らしいと常日頃思ってる私にとって、本当に素晴らしいことにまた気づかせてくれた彼女の自慢の一言でした。

P.S.ひまわりがたくさん咲いているのもきれいですが、小さな花が一面に咲いているのもとてもキレイですね。出社の際、道の脇に咲いていた花たちです。

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割り込み

2018.04.20

今週は中国広州でした。羽田発の飛行機の搭乗開始が早朝5時50分ということもあって羽田空港には4時半に着きました。こんな早い時間ですから、チェックインカウンターはあまり並んでおらずに、すぐに終えたので「ちょっと早く来すぎたかな?」と思いながら出国口に行きました。すると、まだ業務開始となっておらず、多くの乗客が並んでいました。どうやら5時から業務は開始のようです。それにしても、こんなに早くから来る人がいるということは、6時といった早朝でも飛び立つ飛行機がたくさんあるという事ですね。

そして、ジャスト5時に扉が開き荷物検査へと列が進みだしました。早朝ですから、わずか2か所でしか検査が行われていないため、なかなか列が進みません。やっと私がトレイをとって荷物を載せようとした時は、すでに5時35分です。あと15分でサテライトに行かねばなりません。

「手際よく荷物検査を終わらせよう」と思っていたら、外国の男性と女性が前に入り込んできて検査官に何やら言っています。時間と待ち人の列が長い事もあって、彼らが割り込んできた理由は想像がつきます。

「飛行機に間に合わなくなるから先に検査させてほしい」ということですよね。私だってあと15分しかないうえに、今回の飛行機は空港の一番端のスポットから飛び立ちますから、そこまで行くのに10分はかかります。パスポートは機械の自動検査場を使ったとしても残す時間は5分ほどしかありません。

でも、他にも私のように搭乗時間が迫ってイライラしている人が私の後方に多く並んでいるのでしょうが、検査官は彼らの要求を聞き入れ、私に「この方々を先に通させて頂きますので、よろしくお願いします」と言ってきましたので、私も仕方がありません。「いいですよ。どうぞ」と返答しました。

すると、それが大きな間違いでした。

何とその後に12人がこの2人の後につながって私の前に入り込んできたのです。「思わず、これはどういうことですか?」と言いたくなりました。こうような行為は許されるのでしょうか?彼らは、ゆっくり来たからこういった事になったのであって、安全を考えもっと早めに来るべきではなかったのではないでしょうか?

きっと、お金を節約するためにホテルやタクシーなどを使う事もなく、出発時間ぎりぎりの電車で来たのでこういった事になったのでしょう。もし、電車で来ればチェックインはできても、荷物検査に並ぶ余裕などなくなりますから、電車で来るべきではないのです。多くの人はきっとホテルやタクシー、あるいは前日から空港に泊まっているかもしれないというのに、こういった甘えた自分勝手な行動により並んでいる人に迷惑をかけるのは、私には理解しがたいことです。

その上、割り込んできても「自分らは優先されるべき旅行者であり当然だ!」といった態度で、待っている人に全くお礼も言わず、ドヤドヤしながら検査を受け通過していきました。

結局、私はパスポート検査を終え、空港の人に「今から走ってサテライトに行くのでその旨を伝えておいてほしい」と言い急ぎました。空港では「●●飛行機のお乗りの加藤裕彦様、間もなく搭乗口が閉まりますので、お急ぎください」といったメッセージに急かされながら、朝早くの空港を走るのは嫌なものですね。(無論、私以外にも多くの人が呼び出されていました。)

結局、私以外にも荷物検査では後ろに多くの人が並んでいましたから、10人以上の方が定刻時間までにサテライトに搭乗時間内に到着することができず、飛行機の出発はかなり遅れてしまいました。

どういった時でも困った方を助けるのは当然のことと思いますが、このように検査官が14人もの人を前にいれるというのは間違っていると私は思います。承諾するのであれば、別のラインを作ってそちら側で対応するべきと考えますが、早朝といったこともあって検査官も少なく、無理だったのかもしれません。ともあれ、こういった遅延客の割り込みをさせてあげたことは幾度もあるものの、こんな多数の割り込みは初めてです。

更に、これだけではありません。彼らの行動を見てその後ろ並んでいた別の人達たちまでもが、このチャンスに便乗してとばかりに割り込を始め、なんと不道徳な人達なのでしょうか!列に並んでいる方は皆さん立場が同じだというのに・・・。

当然こういった人達に、私は「皆も同じように早朝の飛行機で早めにきて並んだのだから、自分の事ばかり考えるなよ!」という気持ちが湧きあがりました。皆さんはこういった人達の行動をどう思いますか? まさに軽蔑に値する行動です。

私はこういった方々は飛行機に乗り遅れても仕方がないと考えます。自分の考えが甘かったから起きたミスなのですから。これにより他の人に迷惑はかけるべきでないと考えます。
無論、検査官はもっとしっかりとすべきなのでしょうが、彼らの任務は手荷物の検査をまっとうすることですから、そうなるとこういった場合は仕方がないのでしょうかね?

まさに、予想もしなかった早朝の出来事でした。

本当の「損」とは何か?

2018.04.13

老若男女問わず、どんな人も「損をしてしまった」という言葉をしばしば口に出します。私も同じです。私の場合はこの言葉を使うときの多くは時間を無駄にした時です。では、一般的にどんな時にこの言葉を皆さんが言うのかを考えてみましょう。

すぐ出てくるのは、(1)お金を落とした時でしょう。これ以外にも、(2)期待していたものを見たり、食べたり、それを行ったにもかかわらず自分の期待と違った時などでしょう。

でも、「人生には無駄なことはない」とよく言われますよね。私も「神様は我々に無駄なことはさせない。」と小さい時に、よく両親に言われたものです。

確かに自分だけの事のみを考えているのであれば、自分にとっては損をしたことは事実かもしれません。もし、そのお金を拾って助かった人がいたとしたら、あるいはお金を交番に届け、そのことでおまわりさんに褒められたり、自分の善い行いに対し自分自身が満足できたりすることがあるかもしれません。その拾った人の人間性がその後に変わったりすれば、そこにはプラスの作用が起きたわけですから、社会といった面で広く見ると損は起きてないとも言えるでしょう。

ですから、時間についても悩みを聞いてあげるために自分の大事な時間を裂いてあげたのに、結局はその相談相手が何も結論や決心をすることができなかったとすれば、自分は時間を無駄にしたと感じるかもしれません。しかし、その相手にとって、たとえば心の安心感や癒しが生れていたのであれば、この自分の失った時間も広い意味では損ではないですよね。

そう考えると人間社会の損得は足し算すると「ゼロ」の世界と言えるかもしれません。ただし、どう考えてもマイナスのことしか起こっていないのであれば確かにそれは損ですが、そういうことはこの社会にほとんどないのではないでしょうか?

自動車が増えれば便利になるが空気は汚れ、事故の危険が高まります。おいしい食べ物が増えれば嬉しいですが、健康被害のリスクが高まります。全て欲しいものが思ったように提供されれば、自分自身で考えることがなくなり、知能が衰たり、貧富の差が大きくなりだします。

このようにプラスが起きればマイナスが発生します。白い紙の上に鉛筆で円を描けば、円の中と外が出来るようなものです。

ですから、自分で損をしたと思ってもどこかでその損は相殺されると考えるべきであり、必ずそうなると私は最近強く思っています。例えその相殺がすぐになされない事があっても、その人の人生において絶対に相殺されてかえって来ると私は信じています。

ですから、最近は損をしても、あまり考えないようになりだしました。がっかりもしません。「正しい考えは絶対に自分を不幸にはさせないはずだ。いつの日になるかはわからないけど・・・」と、信じているからです。

でも、ここで忘れていけないのは他人に損をさせようとする行為は絶対に許すべきではありません。私欲のために他人に損をさせる事はどんな事があっても許すべき行為ではありません。これだけは人間社会においては許してはいけないと思います。

一方、前述したことは、物や時間を媒介にして「損」と「得」を捉えましたが、人によってはゼロでない人がいます。

「どんな人か?」というと、少なくとも私はノーベル賞を受賞した人はそういった人だと思うのです。この方々はこの世の中を良くしよう、平和な世界を創ろうと自分たちの情熱を注いで、今までに誰も知らなかったこと、想像すらできなかったことを発見します。まさに無から有を我々の世界にもたらしたのです

そこには情熱といったエネルギーしかありません。その価値を計ることも誰もできませんし、無論計る単位もありません。その見えないエネルギーが、ものすごい「得」を世界にもたらしたのです

私は、その素晴らしさに強い感動を覚えます。私も同じ人間なのですからそういったエネルギーを持っているはずです。必ず持っているはずなのです。ですから、そういった人間のすばらしい力を忘れないように私は毎日を生きています。

生命をもらったからには我々は相殺ゼロの人生にしてはダメなのです。

もっと、生まれたことにより持たされた自分の意思だけでしか、わき起こすことのできないエネルギーを使って、我々は何かを生み出すべきなのです。少なくとも私は、それを目指したいです。

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