ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

終戦記念日

2012.08.24

毎年8月半ばに訪れる終戦記念日。

そうはいっても、今の若い人たちのほとんどはピンとこないことでしょう。

1945年8月15日、日本は終戦を迎えました。

それから70年近くたった今、戦没者の追悼式にはご家族がわずか25名しか出席されなかったことをニュースで伝えていました。

それほどの年月が経ったわけですね。

実際、ご家族の皆さまのほとんどが80歳を超える高齢でもあり、式の場所がお住まいから遠くであったり、さらにこの猛暑となれば当然のことと思います。

しかし、この戦争では多くの若者の命も失いました。

たとえば特攻隊として、自分の命と引き換えに戦場に向かう彼らは、その時自分の命や日本をどう思ったことでしょうか。

「天皇陛下万歳、日本万歳、お国のために私はここに命を捧げます」この言葉を聞くたびに目頭が熱くなります。

自分の命をかけ戦った若者たちは、この戦争が終わった後、日本にどうなってもらいたいと願っていたのでしょうか?

無論、勝利を願っていたことでしょうが、「大きな国になってもらいたい。」などとは、直感的には思ってはいなかったのではなかろうかと私は思っています。

「勝ってもらいたい」というよりも「一刻も早くこの戦争を終わってもらいたい。そして二度と戦争のない日本にしてもらいたい。家族が安心して生活できる日本であり続けてもらいたい。」というのが一番強い願いではなかったのでしょうか。

つまり、あの戦場下においては「平凡でもいいから、戦争のなかった良き時代に戻ってもらいたい!」としか考えなかったのではないかと思います。

そう思うと、今の日本をもし彼らが見たらどう思うのかな?と思います。

まず日本が豊かで安全に生活できる国になったことを大変喜んでくれるとは思うものの、外交政策に対しては、かなりの怒りを感じるのではないでしょうか?

いかんせん、あの時代においては強い日本の姿しか考えられませんからね。

今の平和な日本がこうしてあるのも、まさにこの戦争に参加してくれた彼らのおかげだと強く思うとともに、我々は世界にしっかりと存在感をもたらすような日本を作り上げているのだろうかといわれると恥ずかしく、更に申し訳なく思います

今の平和な日本を導いてくれた亡き彼らの思いのためにも、我々はもっともっと奮闘しなければならないのです。

話は変わりますが、先日、昨年亡くなった父の書類を整理していた母が、父の学生時代の文書を偶然見つけたので私に持ってきてくれました。

父は帝国海軍の軍人を志望。

終戦当時は海軍兵学校75期生でした。

終戦が告げられ、この学校が閉校になるに際し、校長が生徒に述べたことが書かれた通達文書です。

そこには、お国のために体力があり、頭脳明晰な生徒を持ったことを誇りに思う気持ちと、これからは彼らの熱き夢をかなえることもできず、無念の中で廃校となる辛さ、そして今後は、このたくましき青年らの顔も見られなくなるという寂しさが、端的な言葉の中に含まれていました。

そして何よりも、生徒たちの将来を心配し、とにかく今後は勉学にいそしめと愛情をこめて語っていました。

一緒に同封されていた、セピア色となった校長の写真を見ながら、その一言一言の中に、日本国軍人魂を生徒たちにいつまでも持ち続けてもらいたいとういう願いと、生徒たちへの温かい心の思いの文書には、戦争を終えた時にしかなかなか出ないような言葉をもって書かれており、非常に感銘をうけた次第です。

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