ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

千日回峰行

2013.10.04

標高差1300メートルの山道を、七年かけて通算で1000日巡礼をしながら歩く「千日回峰行」の話しを聞いたのは今から四十年以上前の事です。

当時高校生であった私は、冬の寒い朝の朝礼で、宿舎の館長である重田先生が話されるこの話を興味深く聞いていた事を覚えています。

初めの一年目から三年目までは一日30kmを年に100日、四年目、五年目も同じ距離で 年に200日歩きます。

そしてその後、九日間の「断食・断水・不眠の行」に入ります。(無論、それを行うには体をこういった環境に耐えるよう整えてからです)

周りには幾人もの僧侶が香をたいて祈り、その成業を見守ります。

一般に人は食物と水がなければ四日ほどで死ぬと言われていますので、これは想像できない事です。

実際、この回峰行をなしとげた酒井さんいわく、「四日目には魚が腐ったような臭いが体中からしだす」と話しておられます。

そして六年目からは一日60km、七年目はさらに一日84kmと歩く距離も増えていきます。

歩く時はいつもワラジで、この距離ともなると睡眠時間も2時間ほどだそうです。

平坦な道でさえこれほどの距離を歩けないのに、ましてや暗く歩きにくい山道、時には天気も乱れる中で、信じられないような距離を巡礼しながら歩くのです。

今のところ、この行を遂げた人は1571年以来三人しかおられないそうです。

皆さん、これほどまでに厳しい修行が日本にあったことを知っていましたか?

私がこの話を聞いた時、非常に衝撃を受けました。

「仏教を悟り知るにはこれほどまでに苦しい修行をおこなわなければいけないものなのか?世の中にはそれを追い求める人がいるのか?達成すれば何がわかるのだろうか?もし、修行の最中に死んでしまったらその時どう思うのか?」などと色々な事を思いましたね。

そういった回峰行を二度も達成した前述の酒井さんが先日心不全で87歳で亡くなられました。

特攻隊員として終戦を迎え、何度もの事業の失敗や、妻の自殺による死別を経て、比叡山に入りました。

今になって思えば、是非ともお会いしてお話しを聞きたかったと思っています。

本当に惜しい人を亡くし悲しいです。

現在、回峰行を実行中の僧侶がおられるかどうかは知りませんが、自分でも理由はよくわからないのですが、いつまでもずっと残していただきたい、まさに肉体と精神の究極な修行だと思っています。

上腕骨外側上顆炎とは

2013.09.27

先日、朝起きてみたら左の肘の上の部分が痛く、しかしさわってみても熱もなく腫れているようには思いませんでした。

ただ強く押したりするとかなり痛い程度でした。

そのため「横向きで寝てたのかな?その時に、手が体の下で変な格好で押しつぶされて痛いのかな・・」などと思っていました。

いつものように朝、腕立て伏せをしても何の支障もありませんでした。

それが、10日ほどもすると、時々ですがかなり痛みがでてきました。

ちょうど休日に、少しお腹が減ったのでインスタントラーメンでも作ろうかと鍋に水を入れてコンロにおこうとしたら、肘が痛くて持ち上げられません。

たかが鍋の重さを入れても1キロちょっとといったところなのですが、どうしても持ち上げられません。

「こりゃまずいな。明日は病院にでも行こう」ということで診察してもらいました。

医師は問診と触診をして、すぐにこれを「上腕外側上顆炎」と判断しました。

「それ何?」といった感じです。

テニスをする人によく起きる、別名「テニス肘」とよばれるものだそうです。
(私はテニスはしませんが)

簡単に言えば「肉離れ」に似たようなものです。

筋肉ではなく腱の辺りの組織が、骨よりはがれて炎症を起こしているそうで、処方薬としてシップ剤と血流促進剤・ビタミン剤をいただきましたが、治るまでには半年位かかるやっかいな怪我だそうです。

何かしたかなと考えてみると、思いあたることがありました。

二週間ほど前の出張の時に久しぶりにジムに行きましたら、知り合いがいて彼が大きな鉄アレイを片手にもって鍛えていました。

重さを見るとなんと一つが12kg。

私はいつも8kgで行いますからはるかに重いです。

それを軽々と片手で持ち上げて腕を鍛えています。

それを見て、私も『12kgはそんなに軽いのかな?私もやってみるとするか』と挑戦。

10回ほどやりましたが、予想以上に重く断念。

「お前はすごいよな!』と彼に声をかけた後、元のトレーニングにもどりました。

多分、これがまずかったのでしょうね。

痛めてしまったようです。

しかし怪我でもすぐに治ればよいのですが、長引くと困ります。

トレーニングは無理をせずに行いましょう。 

皆さんも気をつけてくださいね。

なぜ、古典を勉強するのか?

2013.09.20

先日、息子が「勉強教えて・・」と言ってきました。

私は「物理か数学かな?」と思っていたら古典でした。

思わず出た言葉は「えっ!古典」。

実は私は勉強の中で一番嫌いだったのが古典でした。

古文も漢文も大嫌いでした。

高校の3年間、古典のテストはめちゃくちゃひどい点数。

このため、大学入試の時などは古典は0点と考え、他の教科でそれを挽回すべく試験勉強していました。

なので、息子には「教えることは出来ないと思うよ」と返答しました。

このことで感じた事があります。

私も古典を学校で勉強しましたが、これが社会に出て役に立ったことはほとんどありません。

強いて言えば、中国へいった時に色々な書や石碑を見た際に、そこに何が書かれているかを読もうとした時ぐらいです。

でも、そういった機会もあまりないため、ほとんど知識を使うことはなかったと言っていいでしょう。

私は「今の時代において強いて古典を学校で教える必要はない」と考えています。

皆さんはどう思われますか?

それよりも、子供たちに教えればいけない事はたくさんあると思います。

私としては統計学、IT、金融の勉強などを勧めますがね。

これらを勉強した方が、もっと今後の人生にとって役に立つと思うのですが、文部科学省はどういう目的で古典を子供たちに勉強させているのでしょうか?

「今後、日本はグローバルな人間を育てる必要がある」と言いながら、古典の勉強を強いるのはどういうことでしょうか?

まず、この時間を外国語学習の時間にあてるべきではないのでしょうか?

きっと多くの学生がこの古典の勉強の必要性に疑問を感じているのではと思います。

もしかしたら、教える先生たちもその学習の必要性に疑問を持っているかもしれません。

日本の文学や言葉を大事にすることは文化維持の面で無論いいことです。

でも、すべての学生に強いる必要はないと思うのですがね?

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