ピュア・メディカル社長ブログ『HIROの自分が変われば世界が変わる』

本当の「損」とは何か?

2018.04.13

老若男女問わず、どんな人も「損をしてしまった」という言葉をしばしば口に出します。私も同じです。私の場合はこの言葉を使うときの多くは時間を無駄にした時です。では、一般的にどんな時にこの言葉を皆さんが言うのかを考えてみましょう。

すぐ出てくるのは、(1)お金を落とした時でしょう。これ以外にも、(2)期待していたものを見たり、食べたり、それを行ったにもかかわらず自分の期待と違った時などでしょう。

でも、「人生には無駄なことはない」とよく言われますよね。私も「神様は我々に無駄なことはさせない。」と小さい時に、よく両親に言われたものです。

確かに自分だけの事のみを考えているのであれば、自分にとっては損をしたことは事実かもしれません。もし、そのお金を拾って助かった人がいたとしたら、あるいはお金を交番に届け、そのことでおまわりさんに褒められたり、自分の善い行いに対し自分自身が満足できたりすることがあるかもしれません。その拾った人の人間性がその後に変わったりすれば、そこにはプラスの作用が起きたわけですから、社会といった面で広く見ると損は起きてないとも言えるでしょう。

ですから、時間についても悩みを聞いてあげるために自分の大事な時間を裂いてあげたのに、結局はその相談相手が何も結論や決心をすることができなかったとすれば、自分は時間を無駄にしたと感じるかもしれません。しかし、その相手にとって、たとえば心の安心感や癒しが生れていたのであれば、この自分の失った時間も広い意味では損ではないですよね。

そう考えると人間社会の損得は足し算すると「ゼロ」の世界と言えるかもしれません。ただし、どう考えてもマイナスのことしか起こっていないのであれば確かにそれは損ですが、そういうことはこの社会にほとんどないのではないでしょうか?

自動車が増えれば便利になるが空気は汚れ、事故の危険が高まります。おいしい食べ物が増えれば嬉しいですが、健康被害のリスクが高まります。全て欲しいものが思ったように提供されれば、自分自身で考えることがなくなり、知能が衰たり、貧富の差が大きくなりだします。

このようにプラスが起きればマイナスが発生します。白い紙の上に鉛筆で円を描けば、円の中と外が出来るようなものです。

ですから、自分で損をしたと思ってもどこかでその損は相殺されると考えるべきであり、必ずそうなると私は最近強く思っています。例えその相殺がすぐになされない事があっても、その人の人生において絶対に相殺されてかえって来ると私は信じています。

ですから、最近は損をしても、あまり考えないようになりだしました。がっかりもしません。「正しい考えは絶対に自分を不幸にはさせないはずだ。いつの日になるかはわからないけど・・・」と、信じているからです。

でも、ここで忘れていけないのは他人に損をさせようとする行為は絶対に許すべきではありません。私欲のために他人に損をさせる事はどんな事があっても許すべき行為ではありません。これだけは人間社会においては許してはいけないと思います。

一方、前述したことは、物や時間を媒介にして「損」と「得」を捉えましたが、人によってはゼロでない人がいます。

「どんな人か?」というと、少なくとも私はノーベル賞を受賞した人はそういった人だと思うのです。この方々はこの世の中を良くしよう、平和な世界を創ろうと自分たちの情熱を注いで、今までに誰も知らなかったこと、想像すらできなかったことを発見します。まさに無から有を我々の世界にもたらしたのです

そこには情熱といったエネルギーしかありません。その価値を計ることも誰もできませんし、無論計る単位もありません。その見えないエネルギーが、ものすごい「得」を世界にもたらしたのです

私は、その素晴らしさに強い感動を覚えます。私も同じ人間なのですからそういったエネルギーを持っているはずです。必ず持っているはずなのです。ですから、そういった人間のすばらしい力を忘れないように私は毎日を生きています。

生命をもらったからには我々は相殺ゼロの人生にしてはダメなのです。

もっと、生まれたことにより持たされた自分の意思だけでしか、わき起こすことのできないエネルギーを使って、我々は何かを生み出すべきなのです。少なくとも私は、それを目指したいです。

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